谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』を読む
哲学書を読む意味ってなんだろう?
人生になんらかつまずいたり、くじけそうになったり。そんなときでなければ哲学や宗教に触れようと思わないのが一般的ではなかろうか。
満ち足りた日々を過ごしている人にとって解決すべき問題はそう多くはないであろうから、あえて手を伸ばす必要はない。著者の谷川さんも冒頭「人生や社会が順調に思えるまさにその瞬間に、哲学が必要だなどど感じる人は多くないでしょう」(P10)と記している。
でも、手を伸ばさざるを得ない何かが僕自身にはあると思えたから手に取った。
それは人生が順調ではないと感じているからなのか。
いや、しかし、だ。はたして自分の人生に満ち足りている人なんてどれくらいいるのだろう。
この本は「哲学」といったものをとにかくわかりやすく伝えるべく、レトリックやメタファーが駆使されている(この後に谷川さんが上梓した『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』も同様)。尋常ならざるパラフレーズの厭わなさ。そのため一見すると、哲学書とは思えない雰囲気が醸し出されている。それでも読むにつれ、思索することを厭わないでほしいと僕たちに呼び掛けてくる、れっきとした哲学の本なのだ。
映画『ドライブ・マイ・カー』の主人公家福が抱える想いやアニメ『エヴァンゲリオン』加持のスイカの話。
たまたま両作品とも観ていたからか、著者が言わんとしていることが単にテキストベース以上に伝わってきたようにも思える。谷川さんの本は哲学を表現する材料として映画やアニメを扱うことが多い。それらに触れていると、より感じるものが多いのは間違いないだろう。逆に言えば、それらに擦りすらせず通り過ぎてしまうととんでもない方向に向かってしまいかねない。「哲学書」の歩き方からの逸脱だ。もちろん、触れてさえいればよいわけではないのだが。
森へ向かう
哲学者のジャック・ランシエールは、答えがわからない領域をメタファーとして「森」と表現している。森の中を正しく歩き、生き抜くことこそ日々の生活における思索に通ずると、谷川さんは「森の歩き方を学ぶときのように、考える技術を学ぶ」(P71)という言葉で語っている。そういえば、アニメ『進撃の巨人/最後の巨人』の歌詞に「森を出ろ、 何度道に迷っても」のフレーズがある。まるで生き抜くために思索を止めるなと訴えかけているように聴こえてくる。現に主要登場人物のひとりアルミン・アルレルトの口癖は「考えろ、考えるんだ」だ。いかなる窮地に陥っても考えることを放棄しない彼は、呪文のように独り言をつぶやき窮地を打開せんとする。
森という自然を前に、私たちが手持ちの知識と想像力だけで正しく歩き、生き抜くのは難しい。
それと同じく、哲学に触れるとき、手持ちの知識や想像力だけで理解しようとすれば、なんとなく理解した気になって森の中の底なし沼にはまるか。もしくは、あらゆるメタファーを駆使して語られる言葉を、まるで辞書を引くかのごとく記載されている意味だけを暗記し森をさまようか。そのどちらかでしかない。
では、どのように歩けばよいのだろうか?
森の歩き方
ひとつに、谷川さんは「日常の語感を投影しない」(P102)と語る。「日常の語感」は自らの基準が前提となりその解釈(判断)が成立する。であるならば、己の側に「手繰り寄せない」ことこそ必要ではなかろうか。
理解しようとすればするほど、引き寄せようとすればするほど、ぽろぽろと零れ落ちてゆくのだ。僕らは自らの基準を投影するのではなく、こちらから向こう側に寄り添っていくしかない。
自らの基準。そこにはゆるぎない自分、つまり「自我」の存在がある。知らず知らずのうちに僕らは自我によりすべてを判断している。
本来、ゆるぎないものと思っていたものが疑わしいからこそ哲学に触れようと考えたはずなのに、いつの間にか、ゆるぎない自分(主体)が存在するかのごとく、テクスト(客体)を上から目線で眺めてしまう。これでは、自分が持つ知識と想像力だけで森を歩けないのと同様、哲学もまた読み解けはしない。
「自我」は生きていくうえで自己を守ってくれる概念であり、すべてにおいてネガティブにとらえる必要はない。しかし、森の中を歩いたり、抜け出したりする、いわば非常時とも言えるときに「自我」ゆえに知識や想像力の習得をシャットアウトしてしまったら、僕らは生き抜けないだろう。それと同じく、哲学の「理解」から遠く離れてしまう。
外部とつながる
わからないものはわからないとしてまずは「理解」する。この気持ち悪さから逃げない。本のなかでこの気持ち悪さは、詩人ジョン・キーツが示した概念「ネガティブ・ケイパビリティ」として表現されている。
ではさらなる理解へのアンカーをどこにかけるのか。
先の映画を観ていなければやはり観るのがよいだろうし、注釈に出てくる用語や引用されている人物を調べてみる。この程度の厭わなさは、読者に求められているように思える。それらが好奇心の発露、つまりは知性が導かれる先だとしたら、これほど素晴らしい道先案内はないだろう。またその行為自体、パラフレーズに努力を厭わない谷川さんへの素晴らしいコールアンドレスポンスとなるのではないか。
先に「手繰り寄せるのではなく、こちらから向こう側に寄り添う」と述べた。僕がこの「寄り添う」感覚を覚えたのは、いくつかの体験からだ。
聖書や『ウエストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』、マンガ『ベルセルク』の読書体験、映画では『最後の決闘裁判』の鑑賞経験がそれにあたる。
特に聖書読解によるところは大きい。定期的な読書会での体験に基づく。詳細はまた別の機会にしたいが、時間軸を超えてつながることの背景にはやはり知性が必要ではないかと感じる(知性とは何か?となるが、またそれは別の機会に。「日常の語感」を投影しないことは前提)。谷川さんは別の本『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』で「ジャックイン」(ウィリアム・ギブスンによるサイバーパンク小説『 ニューロマンサー』で使われているらしい)という言葉を用いている。個人的には、映画『マトリックス』で後頭部から電話ケーブルで接続するイメージが浮かぶ。Wi-Fiがない時代の懐かしい映画だ。
スマホ時代とは
この本の前半は、親切丁寧に解説された哲学の歩き方入門と言ってもいい。ここを頑張って乗り越え、「ネガティブ・ケイパビリティ」を抱えながら読み進めることをお勧めしたい。そうすることで後半詳述される「スマホ時代との向き合い方」への理解の解像度は上がるのではないか。
それはそうと、この本の副題『失われた孤独をめぐる冒険』は村上春樹さんの小説『羊をめぐる冒険』がモチーフなのだろうか? 映画『ドライブ・マイ・カー』の原作は村上さんの短編『女のいない男たち』です。