社会人教育に対する想い

長年、教育事業に携わってきました。共感したことを一人でも多くの人と分かち合いたい。学びを求め、関わるすべての人がよりよく生きられるような機会を創出したい。この想いは今も変わりません。

教育という、ある意味「聖域」ともいえる領域で事業活動を営んできました。そのなかで考えてきたことがあります。

「時間」は戻ってこない

顧客(学習者)の「時間」を無駄にしてはならない、ということです。

たとえば、グルメ情報で知ったスイーツを買い、食べたとしましょう。食した結果、期待外れだったとしたら、このスイーツは顧客のお金を無駄遣いさせたことになります。

学びに関しては、どうでしょう?

学んだ結果は一朝一夕に出るものではありません。それなりに時間がかかるのが一般的です。効率が求められるゆえんです。結果、学びから一定の成果を得たとすれば、教育コンテンツや学習プロセスが意味を成していたと受け止められるはずです。

しかし、成果を得られなかったら? 成果を得たと感じられないとしたら?

そのとき、顧客が失うのは「お金」だけではありません。「時間」を奪ってしまったといえるのではないでしょうか。その後「お金」を増やすのは可能と思われますが、費やした「時間」は取り戻せません。

「お金」以上に大切な「時間」を奪いかねないことをおそれつつ、私たちは教育に向き合い、コンテンツ(教材)をつくるべきと考えます。


義務教育に傷ついた人たち

学びが、人を成長させる機会であることに異論を唱える人は少ないでしょう。とはいえ、常に学び続けるのはたいへんです。やはり人は休みが欲しいし、エンタテインメントを欲しているのだと思います。私自身もそうです。

世代によるかもしれませんが、義務教育によって半ば無理やり学ばされたという感覚をもつ人にとって、社会人になってからの学びは相当な覚悟を強いられる行動ではないでしょうか。公私ともに忙しさの極みにおいて、時間的な制約があるうえに、何より楽しくない。覚悟が成果によって報われればよいのですが、そうでなかったとしたら…

もともと義務教育に傷ついた人たちです。

身銭を切り、思い切って学びの門を叩いたにも関わらず報われなかったとしたら、もう二度とその門を叩くことはないのかもしれません。

よりよく生きる機会の創出は、反面、学びの門を閉ざすきっかけにすらなり兼ねない。
この事実と向き合う覚悟が、コンテンツ(教材)を作る私たちに問われています。

教育コンテンツ制作の要諦

大きく以下の2点があると思います。

  • 経験だけに頼らないインストラクション
  • 学習者(受け手)に責任を押し付けない

経験だけに頼らないインストラクション

以前から、教育はとかく経験のみが注目されやすい分野だと感じています。名経営者と呼ばれる人の多くが自らの教育論を語りたがること然り。経営だけでなく他のテーマにおいても自らの成功体験が教育論という文脈で語られることは多くあります。『〇〇流××術』といった書籍は引きも切らず書店に並びます。

これを「おかしい」というつもりはありません。その教育論が、あるプロフィールの人にはぴたりと当てはまったりもするのでしょう。ただ、プロフィール、前提の異なるすべての人たちが『〇〇流××術』で成果を出すのは難しいのではないでしょうか。

私が思い描くコンテンツは、成果を出す人をひとりでも多く輩出することを目指すものです。もちろんプロフィールが異なるため、すべての人は難しいかもしれない。しかし、科学的なアプローチ(技術と戦略)をもって、成果を出す人の人数を増やすべきでしょう。

学習者に責任を押し付けない

学びの理解が進まないのは、学習者の不勉強にあるからだ。少なくとも教わる側で居続けた私はそのようにとらえてきました。

しかし、はたしてそうなのでしょうか? すべてが学習者に委ねられるのだとしたら、教える側の責任はどこにあるのか。

学生時代、自らの研究だけに没頭し講義にはまったく関心を示さない講師がいました。
「わかりやすい」と銘打たれたテキストに記されていた用語がそもそもわかりませんでした。
不勉強の謗りを免れないとは言え、おおよそホスピタリティの対極に位置するものこそ、教育だったようなイメージを持っています。

教える側は皆、専門家です。特定分野に精通しています。
ただし、「特定分野の専門家」=「教えることの専門家」ではありません。
学校の先生と塾講師の違いに顕著に見られる点かもしれません。
講義であれ、著述等のコンテンツであれ、「理解していただく」には科学的なアプローチが必要です。
インストラクションの専門家による教育コンテンツのデザインが求められています。専門素材をどのようにデザインすればわかりやすくなるのか、です。

カギとなる3つのdesign

教育コンテンツの制作には技術が必要です。教え方の戦略、「方略」と言い換えてもよいかもしれません。教育に限ったことではないかもしれませんが、以下の3つのデザインが重要であると考えます。

エディトリアルデザイン/editorial design

編集工学研究所所長の松岡正剛氏は著書『知の編集術』のなかで、64の編集技法を紹介しています。いかに受け手(読者や学習者)に理解を促すことができるのか。考え抜かれ、体系化された技術の結晶です。松岡氏が定義する編集には、以下2つのデザイン要素も包含されています。

ただし、狭義に編集をとらえてしまい、編集技術のみで教育コンテンツを制作できると考えてしまう人も多いのではないでしょうか。たしかにプロダクツとしてのコンテンツ「製作」は可能です。

アドバタイジングデザイン/advertising design

本を読んだり、学んだりをおっくうに感じてしまう人にとって、コンテンツが魅力的であることはモチベーションの向上につながるはずです。広告がもつアイキャッチのちから、新奇性に学ぶべき点は数多くあります。学習過程にシークエンス構造を取り入れ、ストーリーラインを作るゲーミフィケーションなどはそのひとつです。eラーニングなどではよく取り入れられています。

インストラクショナルデザイン/instructional design

上記2つのデザイン技法をも含んだ、システム的なアプローチとも言えるのが「インストラクショナルデザイン」(ID)です。効果・効率・魅力を兼ね備えたコンテンツ作りには欠かせない「方略」です。そのコンテンツにおける効果とは何か? 一つひとつの具体的な設定がシステム的なアプローチを可能とします。 IDは、コンテンツの受け手と送り手双方のニーズを満たすための設計図テンプレートといえます。

独りよがりにならないために

3つのデザインは偶発性を取り除き、コンテンツの再現性を担保してくれます。
PDCAサイクルを回すように、よりよいコンテンツ制作には改善活動が伴います。どこに改善点があるのかを見出すためにも、3つのデザイン思考で制作に取り組むべきでしょう。

これらをベースに、「コツ」や「カン」といった、経験によるところが大きいと思われる技術が加わればまさに鬼に金棒です。「コツ」や「カン」は、スポーツ運動学の分野で研究されており、その言語化アプローチは興味深くもあります。コーチングなどは、まさにそのひとつなのでしょう。

いずれにせよ、送り手本位のコンテンツづくりからの脱却が必要です。
学びを求め、関わるすべての人がよりよく生きられるような機会を創出しましょう。

コンテンツの制作実績については、お問い合わせください。